渡部昇一の書斎

渡部昇一氏との出会いは、知的生活の方法 である。この本には、渡部氏の少年時代のエピソードが載っている。我がふるさとのご出身ということもあり、親近感を持って読ませてもらった。
渡部氏の蔵書に対する考えは、基本的に同じであるようだ。
『知的生活の方法』には、蔵書について、こうある。

若いうちは、金がないから、図書館を上手に使うことは重要な技術である。しかし収入が少ないなら少ないなりに、自分の周囲を、身銭を切った本で徐々に取り囲むように心がけていくことは、知的生活者の第一歩である。西洋のことわざに、「あなたの友人を示せ、そうすれば、あなたの人物を当ててみせよう」というのがあるが、私はこう言いたい、「あなたの蔵書を示せ、そうすればあなたの人物を当ててみせよう」

書斎の立派さは、広さや蔵書の数ではなく、筋のよい本を身銭を切って、できる範囲内で集めるのが良いと言っているようだ。
今や渡部氏の経済力は、かなりのものだろうが、最近、渡部昇一公式ファンクラブのホームページ昇一塾で見ることができた書斎(15万冊の書庫付き)は、圧巻であり、まさしく知的生活のプロといえる。
現在、「昇一塾」「書斎」の2文字でgoogle検索すると、プロの書斎が見られるようである。ただし、いつまで見られるかは分かりません。

硝子戸の中とは書斎のこと

この本の出だしは

ガラス戸の中から外を見渡すと、霜よけをした芭蕉だの、赤い実のなった梅もどきの枝だの・・・

で始まる。
2文目は

書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまたきわめて狭いのである。

とつながる。
漱石は、このとき書斎にいるのである。

漱石は、訪ねて生きた女性から、これまでの辛い人生についての相談を受ける。どうやら、苦難に満ちた人生に終止符を打とうか打つまいかを漱石の考えを聞きたいようなのだ。
漱石の胸には、「死は生より尊い」という言葉が往来していたようだ。しかし、最終的に漱石は彼女にすべてを癒す「時」の流れに従って下れと言っている。彼女は、これに対して、もしそうしたらこの大切な記憶が次第にはげてゆくだろうと嘆いた、という。

以下は、私自身の本文からの抜出である。
「もし生きているのが苦痛なら死んだらいいでしょう」
こうした言葉は、どんなに情けなく世を観ずる人の口からも効きえないだろう。医者などは安らかな眠りに赴こうする病人に、わざと注射の針を立てて患者の苦痛を一刻でもくふうを凝らしている。こんな拷問に近い所作が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着しているかが分かる。私はついにその人に死をすすめることができなかった。

私の母も、呼吸器をつけ、いまだ生きながらえている。何も語ることはなく、ささやかな鼓動を打ち続けているに過ぎないが…。

【オーディオブックCD】夏目漱石随筆集1―「硝子戸の中」「初秋の一日」他3編(CD4枚組)

司馬遼太郎の書斎

司馬遼太郎が書斎で使用した;ダーマトグラフが気になる

『坂の上の雲』の作者である司馬遼太郎氏の書斎の写真を以前、サライという雑誌で見た。その写真の中で印象深いものの1つがダーマトグラフという筆記具である。
今ではめずらしい何種類かの色のダーマトグラフが机の上で存在感を主張している。氏が、自分の原稿に、この色とりどりのマーカーを用い、何度も推敲を重ねている様子が想像できる。
さて、ダーマトグラフは、最近ではあまり見られなくなった。若い世代はもしかして名前すら知らないかもしれない。この絶滅危惧種のような筆記具は、昔、色鉛筆をカッターで削らなくともよいということでずいぶん重宝した。芯は太いものの、短くなり、書きづらくなったら、芯の脇についている糸を引っ張ると芯を包んでいたロール紙がくるくるとはずれ、芯が出てくるという代物である。
私が、思い出すのは、学生の時、テストで教師が採点に用いていた赤のダーマトグラフである。あの太さでは、細かい文字を書くことに全く適さないのだが、ほしくてたまらず、ある文房具屋で見つけて買ってきたっことがあった。当時は、ダーマトグラフは赤しかないと思っていたが、司馬氏が使用していたように実はいろいろな色のものがあるのだ。
私が、それを知ったのは、板坂元氏の名著『考える技術・書く技術』を読んだ時であった。板坂氏は、実は黄色のダーマトグラフを読書の時に必ず使うというのだ。板坂氏のダートマグラフの使用法については、今後語るとして、司馬遼太郎氏が、なぜダーマトグラフを使用していたのか。その理由は、一度ダーマトグラフを実際に使ってみて、国民的作家になった気分にひたってみると少しは分かるのもしれない。

文庫(ぶんこ)文庫(ふみぐら)

文庫といえば一般的にはA6版の廉価で普及を目的とした書物をいう。この文庫が日本で登場するのは昭和に入ってのことである。まあ、最近では単行本の売れ行きをカバーするために文庫本の値段が、高めに設定されている。
さて、文庫には、今述べたように書物という意味でつかわれる場合が多いが、文具や建物の意味合いもある。
一つは、本や帳簿などを入れておく手箱である。時代劇で商人(あきんど)が、帳場で帳簿をつけている場面が出てくることがあるが、その横には、文箱のような文庫がおかれてある。
もう一つは、書物を収めておく倉庫や書庫(今風に言えば図書館)のことを文庫という場合がある。元来は、和語の「ふみぐら」であり、代表的なものに「足利文庫」や「金沢文庫(かねさわぶんこともいう)」がある。その文庫に所蔵される書物をさす場合もあり、単に蔵書一般をさす場合もある。
金沢文庫は、鎌倉中期、北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(元横浜市金沢区)に称名寺を建立し、その境内に創設した文庫である。実時は、北条義時(鎌倉幕府二代目執権)の孫で、実泰の子にあたる。好学の武将で、1234年、小侍所別当となって以来、引付衆・評定衆・越後守・引付頭人・越訴奉行などを歴任し、執権経時、時頼、時宗を補佐した。儒者清原教隆に師事し、自ら『群書治要』などの多くの書物を収集・書写した。実時の死後も、子顕時、孫貞顕が学問を好んだので蔵書は増加し、一族はじめ好学の人々に公開され、鎌倉時代の関東の文教の中心となっていた。鎌倉幕府滅亡後は、事実上廃絶となり、蔵書は称名寺に保管されたものの次第に散室失した。明治になって復興運動が起こり、1930年復活した。現在の金沢文庫は、神奈川県立金沢文庫となっている。
足利文庫は、室町初期に創設の足利学校に付属していた文庫である。室町時代中期の武将である上杉憲実(のりざね)が、再興し、実実と子憲忠らが寄贈した宋版本、北条氏政寄贈の金沢文庫本などを蔵する。現在の足利文庫は、足利学校遺蹟図書館として存続している。

書斎とは

書斎とは書斎は本を読んだり、書き物をしたり、研究したりたりするための専用のスペースのことである。最近では、書斎を趣味の部屋として活用する場合もあるようで、いわゆる工房化やアトリエ化している書斎もあるようだ。

英語では、書斎のことを「スタディ(study)」、フランス語では「エチュード」とされ、いずれもラテン語の「ストゥデーレ(集中する・学習する)」が語源である。そのようなわけで、このサイトのドメインは、「幸せな書斎生活」をおくりたいという願いに由来して取得したものである。

さて、日本語の「書斎」の「斎」の字は、物忌みや勉強のために一つの場所に「こもる」ことをいう。隔絶した空間で一心不乱に取り組む様子を連想させる。
「書斎」の類語には様々なものがある。山房、書屋、書閣、書窓、書堂、書房、文房などである。  山房は、書斎の風雅な名前、書屋は、書物を入れておく部屋の意味合いが強い書斎。書閣は、書屋より規模が大きい書物を入れておく建物といった書斎。書窓は、字のごとく書斎の窓のことだが、書斎そのものの意味のときもある。書堂は、書物を読む目的の部屋であり、書房は、本屋の意味で使われることもあるが、やはり書斎の意味もある。文房具といえば、一般には鉛筆やペン、はさみのりなどを指すが、文房は、読書、執筆、研究などをする部屋、つまり書斎を意味する。